国際化と言われるようになって久しいですが、世界のことを知るうえで、「宗教」は欠かすことはできません。というのは、世界のほとんどの国が「宗教国家」だからです。宗教の「教え」が日常に根差している人々が多いのです。今回は、世界最大人口を誇る「キリスト教」について解説します。

「あなたの宗教はなんですか?」と聞かれたら何と答えますか?
特に信じてる宗教はないわねえ。

たいていの人はこう答えますね。これは日本人特有で、外国の人に同じ質問をすると、ほとんどの人は、何かしらの宗教を信じている、と答えます。

世界の国々では、「宗教」の教えを中心として、生活している人はたくさんいます。それくらい「宗教」は人々にとって欠かせないものなのです。
例えば、アメリカのほとんどの人は「キリスト教」の信者です。キリスト教徒でない人が、大統領に立候補しても、当選できません。
そして、当選したなら、その就任式で聖書に左手を置き宣誓します。神様に誓うのです。
それくらいアメリカ人にとって「キリスト教」は大切だ、ということなんです。
「アメリカ」という国を理解するうえで、「キリスト教」を知ることは非常に大事なことなのです。
※「キリスト教」は、ヨーロッパ各国、南米の各国でも信仰されています。
では「キリスト教」とはどんな宗教なのか、見ていきましょう。
以外と知らないキリスト教のあれこれ

ここからは、キリスト教について、以外に知られていないこと、勘違いされていることなどについてお話していきます。
「神父」と「牧師」は違う人?

神父さんと牧師さんって、呼び方が違うだけなんじゃないの?


そう思っている人は多いのでは? でも「神父さん」と「牧師さん」は全くの別人です。

キリスト教は大きく分けて、「カトリック」と「プロテスタント」があります。
大昔は、キリスト教はカトリックだけでしたが、16世紀の「宗教改革」のとき、カトリックのやり方に、「プロテスト(抗議する)」という形で、「プロテスタント」が誕生しました。
「プロテスタント」の人たちは、「カトリック」のやり方に「抗議する人たち」ということです。
カトリックとプロテスタントの大きな違いは、「信者を導く人の立場」です。
カトリックの場合は、神様と人間たちの間に、もう一人人間がいて、その人が神様に代わって、人々を導きます。
それが「神父さん」です。
つまり、「神父さん」は神様と人間との間にいる人で、人間より「地位」が上であるという位置づけになります。
プロテスタントの場合は、「導く立場の人」も人間たちと同じ立場です。それが「牧師さん」です。
牧羊犬はヒツジの先頭にたって、ヒツジたちを引き連れます。「牧師」の「牧」はここからきています。
人間界にいて、「迷えるヒツジ」を導く人、それが「牧師さん」というわけです。
このようにプロテスタントでは「人間、皆平等」なので、牧師さんの間に「階級」はありません。
一方、カトリックでは、神父さんの中でも階級があります。責任の度合いや役割の違いにより、
「大司教」「司教」「司祭」というように、ピラミッド型に決まっています。そのトップで絶大な権力を持っているのが「ローマ法王」というわけです。
イエス・キリストは名前じゃない?

イエスが名前で、キリストが名字じゃないの?

イエスは名前です。紀元前4世紀ごろに生まれた人です。ですが「キリスト」は名前でありません。「キリスト」は「救世主」という意味なんです。
イエス・キリストとは、救世主のイエスさんということです。
では、イエス・キリストとはどんな人なのでしょうか?
イエスが生まれた時には、もちろん「キリスト教」はありませんでした。そのころ人々が信仰していたのは「ユダヤ教」です。
イエスも「ユダヤ教」の熱心な信者でしたが、そのやり方に反発するようになり、ユダヤ教徒によって、十字架にはりつけにされ殺されてしまいます。
イエスは亡くなってから、3日後に復活。その後、いろいろな場所で「説教」をして、天に昇った、という話が、人々の間で広まります。
当時は、この世が終わる前に、人々を救ってくれる、あるいは人々を導いてくれる「救世主」現れるという、いわゆる「救世主信仰」がありました。
イエスこそがキリスト=救世主ではないのか? と考える人が次第に増えて、その人たちがやがて、「キリスト教徒」と呼ばれるようになったのです。
キリスト教の聖地「エルサレム」の不思議?

イスラエルの都市エルサレムは、キリスト教だけでなく、イスラム教、ユダヤ教の聖地でもあることを知っていますか?
どうしてなのでしょう?
それは、この3つの宗教が信じている「神様」は一緒だからです。
「ユダヤ教」「キリスト教」では神様のことを、英語で「ゴッド」、ヘブライ語で「ヤハウェ」と呼びます。「イスラム教」」では、アラビア語で「アッラー」と言います。
これは、単に「呼び方」が違うだけで、この世を造った「唯一絶対の神様」のことを指しています。
そして、一番古い宗教は「ユダヤ教」で、そこから「キリスト教」が派生し、さらに「キリスト教」から「イスラム教」が生まれたのです。
つまり、「キリスト教」も「イスラム教」も、元は「ユダヤ教」なのです。
そのため、エルサレムには3つ宗教の聖地があるのです。
エルサレムにあるキリスト教の聖地は、イエスの墓があったとされる場所に建っている「聖墳墓教会」。
そこから、東に数分歩けば、イスラム教の聖地「岩のドーム」
そのすぐ南にあるのが、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」です。



以外と知らない「聖書」のあれこれ?

「聖書」という言葉を聞いたことがない人はいないでしょう。でもその中身は?と聞かれると、あやふやだったりしますよね。
ここからは、キリスト教の教典である「聖書」についてお話していきます。
聖書は2つ
キリスト教の聖書は2つです。「旧約聖書」と「新約聖書」です。
この「約」というのは、「神様との契約」という意味で、「旧約聖書」は神様との「古い契約」
「新約聖書」は神様との「新しい契約」、ということなんです。
ユダヤ教にとっては、「旧約聖書」だけが教典であるため、「旧約聖書」とは呼ばず、ただ「聖書」と呼びます。
つまり「旧約」「新約」というのは、キリスト教の呼び方ということです。
また、イスラム教では、「旧約聖書」も「新約聖書」(「新約聖書」の場合は一部分だけ)も信じていますが、さらに「コーラン」という教典があります。
「旧約聖書」も「新約聖書」も神様から与えられた大切な「契約」だけれども、人々はそれも全然守らない。
だから、最後に神様は「コーラン」を与えた、ということで、イスラム教の人たちはこの「コーラン」が一番大事だ、と考えています。
話を戻して。では「旧約聖書」と「新約聖書」の違いはなんでしょうか?
「旧約聖書」には何が書かれている?
「旧約聖書」には、神ヤハウェとユダヤ民族との契約が書かれています。
ザックリ言うと、「神が選んだユダヤ民族が、神の言葉を守るなら、永遠の王国を与える。この約束はのちに与えられるメシア(救世主)によって実現する」
つまり、旧約聖書は、ユダヤ人限定の「契約」と言えます。
当時、ユダヤ民族は、貧しい土地で、他の民族に迫害されながら、それに耐えて暮らしている、というのが現状でした。
しかしこれも、仕方ないと言える理由が「旧約聖書」には書かれています。
「アダムとイブ」の話は知っていますか?
人類の始祖であるアダムとイブは、神様との約束を破り、「禁断の果実」と食べてしまいます。
そして、「楽園・エデンの園」を追放され、地上へと放り出されます。

これを「原罪」と言います。人類が犯した初めての「罪」というわけです。
この罪は「アダムとイブ」だけにとどまらず、その後も子孫に「遺伝」して、ずっと人類が背負っていく「罪」であるとされています。
つまり、この「原罪」により、ユダヤ人は苦しい生活をしなければならないのだ、というわけです。
旧約聖書には、「人々が神の約束を破る」➡「神が怒り、罰を下す」➡「神の使いの人が、人々と神の仲を取り持つ」というパターンの話が少なくありません。
「旧約聖書」での神様は非常に厳しいわけです。
厳しいのですが、神様の言葉をきちんと守っていれば、いつか「救世主」が現れて、ユダヤ人は救われますよ、という「契約」なんですね。
逆に言えば「神様の言うことを聞かない人は、救わないよ」ということでもあります。
ちょっと懐の小さい神様といえますね。
「新約聖書」はイエス・キリストとの契約?
この「ユダヤ教」の神様像に対して、反発する人が現れます。それが「イエス」です。

私たちの神「ヤハウェ」はもっと寛大だ。罪深き人々を愛を持って見守ってくれている。
罪を持っている人々も救おうとしてくださっているのだ。
と人々に説いたのです。
イエスは、実際、奴隷や女性たちといった身分の低い人たちに手を差し伸べ、「愛に満ちた」活動を行っていきます。
その活動期間は、ほんの数年と言われています。
これがユダヤ教徒には気に入らない。そして、先ほどもお話したように、イエスはユダヤ教徒に迫害され、ついには十字架にはりつけにされてしまいます。
ですが、いっこうに救われることのない状況に苦しんでいたユダヤの人々に、この「イエス」の言葉や行動が響いたのです。

我々はいつまで苦しめば、神様は救ってくれるのか?もう限界だ!
救世主はいつ現れるのだ!
ユダヤ人にもこんな風に思う人が出てきました。
イエスは処刑された後によみがえり、各地で「説教」をして、天に昇った。という「伝説」が広がり、
「イエス」こそが「救世主=キリスト」ではないか、となっていくわけです。
やがて、「キリスト教」が誕生し、「新約聖書」が書かれます。

「イエス・キリストという救世主が現れた。旧約聖書の約束は果たされた。次は、イエス・キリストとの新しい契約が始まる」
ということで、イエス・キリストとの「新しい契約」=「新約聖書」が書かれたのです。
「新約聖書」を書いたのは、イエスではありません。イエスの死後、パウロという宣教師が書いたものです。(書いたのはパウロだけではありませんが)
パウロという人は、熱心なユダヤ教徒で、キリスト教を迫害していました。
ですが、ある時、光とともにイエスの声を聴き、回心してキリスト教徒になります。
パウロは、イエスを神の子=救世主として、キリスト教を布教していった人なのです。
ユダヤ教徒は、現在でもイエスを救世主=神とは認めていません。ですから、「旧約聖書」の約束はまだ果たされていないとして、「新約聖書」を認めていません。
これは、イスラム教徒でも同じです。ただイスラム教では「新約聖書」の一部は認めています。
ですが、基本的に「キリスト教」を認めてはいません。
なぜ「キリスト教」は世界最大の宗教となったのか?

キリスト教の信者は、世界の人口の約33%を占めています。これはもちろん世界一です。
※ちなみにイスラム教徒は世界の人口の約20%
ユダヤ教から派生した一地域の宗教だった「キリスト教」がなぜ世界一の宗教になれたのか?
その謎の答えは、「イエス・キリスト」「宣教師パウロ」「ローマ帝国」にあります。
他宗教との大きな違いとは?
まずは「キリスト教」の特徴についてお話します。
キリスト教の特徴、それは「イエス・キリスト」の存在です。
「ユダヤ教」「イスラム教」も「キリスト教」も信じる神様は同じでしたね。
3つの宗教が信じる神様は、「姿形」はありません。ましてや「人間」でもありません。目に見えるものではありません。「大いなる意志」そのものなのです。
「キリスト教」以外の宗教では、この神様が唯一絶対であり、他の神様は認めません。
ですが、「キリスト教」だけ、「イエス・キリスト」という「人間」を神様としたのです。キリスト教では、イエスは神様と同等ですが、「ユダヤ・イスラム教」にとってイエスはただの人間です。
キリスト教の教会では、イエスの像に向かってお祈りしますね。
でもそれは「偶像崇拝」であり、本来やってはいけないことなのです。
ですから、「偶像崇拝」をするキリスト教を、ユダヤ教もイスラム教も認めていません。
キリスト教は「本来目に見えない存在」である神様を、イエス・キリストという「目に見える存在」にした。
これが、他の2つの宗教にない大きな特徴と言えます。
パウロが広めた「キリスト教」の教えとは?
キリスト教を確立したのは、先ほども出てきた「パウロ」です。
パウロの打ち出した壮大な救済論が、世界の人々に受け入れられた、というのがキリスト教が拡大した大きな理由です。
「旧約聖書」では、人々には「原罪」があり、それを背負って、ひたすら神の許しを待つ。そして人々の裏切りを神様は決して許さない。という若干器量のせまい神様でした。
「キリスト教」は、そこをガラリを変えました。
人々の罪は、イエスの十字架の血によって、すべて許されれた。イエスによって、人類のすべての罪は消えたのだ、としたわけです。
パウロはこう宣言します。

もしも、イエスと一つになるのなら、ユダヤ人もギリシャ人もなく、自由人も奴隷もなく、男も女もない(「ガラシャの信徒への手紙」)
罪も人種も関係ない。神の子イエスを信じれば、どんな人でも「神様の愛」を受けることができますよ、と大変器量の大きな神様にしたわけです。
この「教え」が、当時の身分の低い人たちや、圧制などに苦しんでいた人たちに響いたのです。
このように、宗教は分かりやすく、簡単な方が民衆に広がります。

ここでは、詳しくお話しませんが、「仏教」などもそうです。
仏教は日本に入ってきた当初は、たくさん修行をして、「悟り」と開けば、「極楽浄土」にいけますよ、といった厳しいものでした。
これでは、誰もができるわけではないので、あまり民衆には広まりません。
そこで、浄土宗の開祖といわれる「法然」さんは考えました。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも「極楽浄土」にいけますよ。としたのです。
ちなみに「南無阿弥陀仏」とは、平たく言えば「仏さまにすべてお任せします」という意味です。
非常に簡単ですね。誰でもできます。この「簡単さ」が民衆には受けるわけです。
ローマ帝国の国教となる?

「ローマ帝国」って聞いたことがある人は多いでしょう。ザックリ言うと、ローマ帝国とは、紀元前8世紀ごろにローマにできた都市国家が、ヨーロッパのほとんどを支配して、紀元2世紀ころまでの、1000年間以上にわたり、繁栄を誇った巨大帝国です。
このローマ帝国がキリスト教を「国教」としたことも、キリスト教が世界に広まる要因のひとつです。
当初、ローマ帝国はキリスト教を迫害していました。それはキリスト教をユダヤ教の一派だと考えていたからです。
当時、ローマ帝国はユダヤ教徒の反乱に手を焼いていました。ローマ帝国はユダヤ教を弾圧し、その一派であると思われていたキリスト教も弾圧します。
いろいろと細かい部分は省略しますが、その後、皇帝となったコンスタンティヌス一世が、帝国の統治のためにキリスト教を利用しようと考えます。
先ほども言いましたように、キリスト教では、イエスを信じることで、世界のあらゆる人たちが救われる、ということでしたね。
このことが、ローマ皇帝コンスタンティヌスが考えた「世界平和戦略」と結びつきます。

コンスタンティヌスは、全教会規模の会議を開き、そこで「三位一体」などの教義を定め、それ以外を異端としました。
その後、皇帝となったテオドシウス一世により、三位一体派以外の宗派、他の宗教は厳しく弾圧。
こうして、キリスト教のはローマ帝国の「国教」となり、その後、キリスト教は、ヨーロッパ全土に広がっていきます。

ここで「三位一体」って何?と思われるでしょう。この考えも、実はキリスト教の特徴のひとつなのです。
最後にこの「三位一体」について、そして「マリア様」についてお話します。
「三位一体」とは?マリア様は神様なのか?
キリスト教も、ユダヤ教と同じく、この世を創造した絶対神である「ヤハウェ」を信じています。
そして、「神の子」である「イエス・キリスト」も神として存在します。
さらに「聖霊」というものが存在する、というのがキリスト教独特の「三位一体」という考えです。
「父と子と聖霊の御名において」と、教会でお祈りされる「聖霊」です。
「父なる神」「神の子であるイエス」そして「聖霊」の3者が一体となって「神」とする、というのがキリスト教の考え方です。
では、「聖霊」とは何なのか?
キリスト教では、「ヤハウェ」という「目に見えない」神ではなく、イエス・キリストという「目に見える」存在をも神とした、というお話を先ほどしましたね。
イエスは死後、復活し天に昇ります。そうすることで、やはり「ヤハウェ」同様、「目に見えない」存在に変わります。
ですが、代わりに「聖霊」が地上に残り、その「聖霊」が、人間や世界に対して、イエスと同様の働きを、しているのだ。というわけです。
そして、この「聖霊」はイエスの誕生にも関わっています。


マリア様は、イエスを産んだとされていますね。
イエスは「神の子」だから、その母親のマリア様も神様なの?

中世ヨーロッパでも、この疑問が議論されました。
ですが、「マリア様」を神様とすると、「三位一体」の考え方が壊れてしまいます。
ですから、こう解釈されることになりました。
「聖霊の力により、処女マリアより神の子イエスが生まれた。だから、マリアは神の子の母親ではあっても、神ではない」
こう解釈されることで、「三位一体」が確保されることとなったのです。
日本でキリスト教といえば、「イエス・キリスト」と共に「聖母マリア様」を思い浮かべる人は多いと思います。
神様でもない「マリア様」がなぜこれほどまでに「有名」なのでしょうか?
それは、その答えは、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教をもたらした頃にあります。
これは、日本だけのことではありませんが、「母なる大地」という言葉があるように、古来から女性は「恵みの象徴」でした。
また、仏教でも観音様は「女性」です。女性は「慈愛・慈悲の象徴」でもあったのです。
実は、ザビエルがキリスト教をもたらしたときに、民衆の心をつかんだのは、イエスではなく、マリア様だったと言われています。
九州の「島原」でキリスト教徒が多かったことは、学校の歴史でも習った覚えがあると思います。
そのころの島原の人々は大変貧困で、子どもを「間引く」しか生活できない、母親にとっては非常につらい生活を強いられていました。
その人々の悲しみを受け止めてくれる存在が「聖母マリア」でした。
「聖母マリア」の中に、慈愛・慈悲の心を見出し、それをよりどころにしていたのでしょう。
おわりにかえて
はじめに「アメリカでは、キリスト教徒でなければ大統領になれない」というお話をしました。
さらにいえば、アメリカ国民にとって、「カトリック」なのか「プロテスタント」なのかも重要です。アメリカのキリスト教は「プロテスタント」が主流だからです。
例えばこんな話があります。
1960年にケネディが大統領選挙に出た時、「ホワイトハウスがバチカンに支配される」と、ケネディを批判する運動が行われました。
ケネディは「カトリック」だったからです。先ほども言いましたように、「カトリック」にとっての絶対権力者は「ローマ法王」です。
もし、ケネディが大統領になったら、「ローマ法王」の言いなりになるのでは、という危機感を持つ人が大勢いたのです。
そこでケネディは「私はカトリックではあるが、アメリカに忠誠を誓う。他国の支持は一切受けない」と宣言しました。
アメリカでは今でも、カトリック信者の候補が出てくると、「ローマ法王につくのか、アメリカ国民につくのか、どっちなのだ」
と、ローマ法王のと関係を問われます。
日本ではありえませんね。総理大臣がどんな宗教か、気にも留めませんものね。
でもこれが世界では「常識」なのです。
また、アメリカは「自由の国」と言われますね。
※ここからは「私見」も入ります。
これはアメリカがキリスト教の国であり、プロテスタントの国であることが関係していると思ます。
プロテスタントでは、「人類は、神の下では皆平等」です。
民族も人種も身分も関係ありません。
「誰でも平等にチャンスはあるのだ、成功するチャンスは誰にでもある」という、いわゆる「アメリカン・ドリーム」というのも、プロテスタントの考えからきているのでしょう。
このように、「宗教」の教えというものが、世界の人々の生活や考え方に深く影響しているのです。
これからの若い人は、ますます「国際化」していくでしょう。世界でビジネスをする上で、「宗教」について理解することも、大切になってくるのではないか、と私は思います。
おしまい
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